大阪府豊中市
南桜塚1-4-2
06-6852-4041
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きねやはんのまるごとアート vol.7より |
そのG 深夜のフライトぎりぎりまで
7時15分、最後の山歩きが始まった。一歩一歩踏み締めながらこの一週間のことが川のせせらぎのように頭を過る。そのどれもこれもが
素直でナチュラルな出会いだった。人との出会い、山々との出会い、星との出会い、豊かな動植物との出会い・・・それらは一度きりの
出会いとなるかもしれないが、わたしの心の奥深くまで浸透し、地下水脈を作り、全身の隅々に英気を漲らせる結果となった。そして、
歩くことのなんとすばらしいことか。素直に歩けば、森の木々は必要なものすべてを与えてくれる。さもなくば、すべてを奪い去る。
鳥も花も追いかければ逃げ、素直に歩けばついて来る。一歩、一歩、出会い、別れ、別れてはまた出会い・・・そして、長い長い道程の最果てに
神々の山は聳える。それにしても、苦しい道程の最後の最後に厚い雲の扉が開かれ、燦然と輝く白銀の峰々がその全貌をあらわにした事実を
単なる偶然と考えるべきだろうか。科学は答える。北緯何度に高気圧が張りだしたためだと。
しかし、旅を豊かに、人生を実り多きものにしたいならば、わたしは次のように信じたい。
森がわたしの願いを聞き、
鳥がその願いを運び、
山が大空に伺い、
大空が太陽を呼んだ、と。
午後2時30分、わたしたちはポカラのサイレントピークホテルに無事戻って来た。
ボーイたちが「お帰り。」と、満面の笑みを浮かべて迎えてくれた。一人がわたしの荷物を担いで部屋に誘導し、扇風機のスイッチを入れた。
熱いお湯の出るシャワーで汗を流し、一息ついてからダンとしっかり冷えたビールで乾杯した。これぞこの世の至福である。
全身の緊張が一気に解放され血管が開きアルコールが花火のように駆け巡る。ああ、もう何もいらない。
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1996.08.27 いよいよポカラともお別れだ。
もう遠くなってしまったマチャプチャレのピークが
名残を惜しむかのように雲間から姿を覗かせている。
ホテルの主人と奥さん、それによくしてくれたボーイたちが
朝の早くからわたしたちを見送ってくれた。長いバスに揺られて、
午後2時カトマンドゥに到着した。人の多さと交通渋滞、
排気ガスにゴミの悪臭、天国から地獄へ落とされたような気分で
バスを降りる。
「ダン、君の仕事はこれで終わりや。今から飛行機の時間までは
友達で行こう。」と、わたしが言うとダンは少し照れくさそうに
うなづいた。トゥンディケルという大きな公園に面した
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1983年10月撮影 |
ロイアル・ネパール航空のオフィスでリコンファームの最終チェックを済ませ、わたしたちは荷物を置きに、ダンのお姉さんのアパートへ行った。
そこはチベット人出稼ぎ労働者の多いヴィシュヌマティ川のほとりにあった。橋を渡ればスワヤンブナート寺院がすぐのところだ。
道が舗装されていないのは例に漏れず致し方ないとしても、ここの凹凸はあまりにも酷い。至る所泥濘んでため池のようだ。アパートの玄関も
何故か水浸しになっていて奥を覗いたがダンの姉は不在のようだった。荷物を置いて川に出ると、大勢の人々が対岸の川べりに集まっていた。
どうやら大統領夫人が亡くなったようだ。ヒンドゥの儀式に則って遺体を荼毘に付し、ヴィシュヌマティ川に流すのだろう。そして、この川は
カトマンドゥの南でバグマティ川と合流し、遥かインド大陸へと下り、あの聖なるガンガーに合流する。ということは90%近いといわれる
ヒンドゥ教徒のネパール人が儀式通りきちんと死ねば、皆インドへ流れて行くことになる。なんたる壮大な死の行進だろう。
わたしたちはそこからタメルのトレッキング斡旋会社へ行き、旅の無事を告げた。事務員がここに来る日本人ツーリストに参考になるように
レポートを書いてくれというので、わたしは日本語500字位でダンに対する感謝やトレッキングのすばらしさなどを綴った。
事務員はたいそう喜んでヨーロッパ人やアメリカ人等にも読んでもらいたいからと、次に英語に訳して書いてくれという。
「先に言うてくれよ、もっと短く書いといたのに。」ぶつぶついいながらも拙いセンテンスを繋ぎ繋ぎ、やっとの思いで書き終えることができたら
今度は前に日本人の書いたレポートを自分に訳して聞かせてくれという。「あのなあ、オッサン翻訳料もらうで。」
お蔭でわたしは一時間もオッサンと英語のレッスンに汗を流したのだった。
「サンキュー、サンキュー、」作り笑顔でやっと事務所の外に出るとダンが現れて、「いったい長いこと何やってたんだい?」と聞くので、
これこれだったと話すと大笑いし、「それは良かった。」と言った。
タメルの周辺で適当にみやげを買い終えると、わたしたちはニューロードの近くにある高級レストランで最後の晩餐を始めた。
テーブルには扇に飾られたピンク色のナプキンが白い食器の上に置かれ、銀のナイフとフォークが端に並んでいる。正面にはステージがあり
キーボードやギター等の楽器が準備されている。これまで何度乾杯をやってきただろうか。ともかくも、これが最後の乾杯である。
「長い道程、本当にお疲れさん。ところでダン、君の給料ってどんなもんなん?」 わたしはそれとなく尋ねて見た。
「僕の給料は一日125ルピーだよ。(約250円)」 「えっ、ええ!!」 「だから一週間トータルで875ルピーだ。(約1550円)」
わたしは唖然とした。ダンが一日汗だくになって働いた価値はわたしが作る饅頭のたった2個分にしか匹敵しないとは。会社に支払った金額は
320ドルだったから彼の取り分は5%にも満たない。労働組合ができて人権がある程度確立されるまでにはまだまだ遠い国である。
その上、仕事は年に数回しか回って来ないという。「ダン、それで君は一ヶ月の生活費にどれくらい使うの?」 「2000ルピーかそれ以上かな。」
「他に仕事してないんやろ。それやったら採算合えへんがな・」 「そう、だから時々・・・」 ダンの声がだんだん細くなり始めた。
彼は時々、実家で農業を営んでいる両親から仕送りをしてもらっていたのだ。わたしはマスコミの取材をやっているわけではない。
ダンに対してはすっかり弟のような気持ちでいた。なんとかしてやりたいという心情が募ってくる。よくない情動かもしれないが、わたしは
口走ってしまった。「もし、なんとか日本のワーキングビザが取れたら、片道の飛行機代と就職先を確保できるよう努力してみるわ。」
ダンの夢は一年間日本で働き、その資金で食べ物商売をやることだそうだ。彼の目は輝いた。だが、よく考えて見ると出稼ぎ労働者というのは
果たして本当に幸福を呼ぶものなのだろうか甚だ疑問である。国の知的水準の伸び率に対して肉体労働で得た外貨ばかりが増えれば、
結局一部の悪徳商人が富を独占し、新たな貧富の差を生むだけとなるのではないだろうか。誰でも金はほしいし、なければ生きてはいけない。
だが、現金ばかりを追いかけて家族や友人、隣人の信頼を失えば人は最後には不幸になるしかない。たとえ貧乏でも周りから慕われて
いる方がよっぽど幸せである。カルカッタにはたくさんの河原乞食がいるが、彼らこそ崇高な人生を歩んでいる真の芸人といえる。
乞食をしろとまでは言わないが、他の人々と富を分かち合えるような生き方をダンにはしてもらいたい。
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ステージでライブが始まった。若い女性ボーカルの透き通るような声が
客席に華やかに拡がった。ダンが歌詞を翻訳してくれた。
ペワタルクール ペワ湖の水面に
アーガンマ レイレイ 映っている
マチャプチャレ チャーンヤン マチャプチャレよ
ジーバン メロー わたしの人生よ
セーティ ボガラ 水のない岩肌の川
ビナ ティングルマヤ あなたの愛なしでは
わたしとダンは深夜のフライトぎりぎりまで愛の歌に酔い、別れを惜しんだ。
愛の大海の中でこそ人間は生き生きとしていられるのだと教えられた旅だった。
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今では建物が立ち並び、もう見られなくなったポカラの景観
(1983年当時) |
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