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きねやはんのまるごとアート vol.7より
  そのA 13年振りのマノジュ君


  1996.08.19

  明け方、カラスの鳴き声に起こされ、テラスに出てみた。顔を洗う人、布団を畳む人、洗濯を始める人、

 何から何までまるみえであるが、むこうは別に気にしているふうでもない。40歳位の男の泊り客がいきなり話しかけてきた。

 韓国人のようだ。家族でポカラへ行って来たそうだが、天候に恵まれず山は見えなかったそうで、すっかり落ち込んでいる。

 まあでも仕方ない。最悪のシーズンなのだから。ホテルの周辺をちょろっと散歩し、部屋に戻ってみると、

 O君はまだ頭から布団を被ってオネオネしていた。昨夜の勢いからは想像もできない。

  「おおがさん、あの・・・・・・ウンコ手で拭けます?」 「なんや急に。拭けるでぇ」 

  「ぼく、だめなんですわ。水で洗ったあと、濡れたままパンツよう上げれませんねん。何や気色悪ぅて。」 

 わたしはもし、今ここにO君の教え子たちがいたら、いったいどんな顔をするだろうかと必死で笑いをこらえた。

  「水のついたところを紙で拭いたらどう?」 「それやったら最初から紙で拭きますわ。」 「それもそうやなぁ。」

 ・・・人類はいったい、いつ頃から紙(縄の時代もあったそうだが)というめんどうなものを使うようになったのだろうか。



  わたしたち三人は昼食を一緒にすることを約束し、それまでは個別行動を取ることにした。雑踏の中、わたしは

 フリーク・ストリートを目指してまっしぐらに歩いた。13年前、この旧王宮前のダルバール広場をぶらぶらしていたところ、

 一人のネパール人学生が正確な日本語で話しかけて来た。ツルツル頭に黒のベストを着て、小柄だがとても愛嬌のある青年だった。

 わたしたちはすぐに仲良しになり、結局、彼の両親の経営する小さな宿屋に二、三日泊まることになった。

  今、わたしはその思い出の宿屋を捜し歩いている。マノジュ・シュレスタ、・・・・・・“いてくれよー。” 

 あれ以来、何の連絡もしていない。なにやらドキドキしてきた。フリーク・ストリートに来ると、その風景は昔のままだった。

 変わったとすれば人の多さ位のものであろう。ひっそりしていた路地のすみずみまでが人の往来で溢れかえっている。



  少し迷いながら、ようやくマノジュの宿屋を見つけることができた。しかし、入り口の青い扉と窓は閉ざされている。商売をしている様子がない。

 その時、深紅のサリーを纏った小柄な女性がわたしの前を通りかかり、タイミング良くその扉を開けた。そして、こちらを振り返って、

 にっこりと微笑んだのである。まさか、売春宿になったんと違うやろなあ。わたしは恐る恐るその女性に近づいて行き、

 思い切ってマノジュと一緒に写っている写真を彼女に見せた。

  「まあ、これ、わたしの弟だわ。あなたお友達ね。」 「おおがといいます。」 「さぁ、遠慮なく上がって。」  

 まったく勘違いも甚だしい。4階の応接間兼寝室に通され、お姉さんはそこから別のところに住んでいるらしいマノジュに電話してくれた。

 そして、またにっこり笑って、わたしに受話器を差し出した。

  「もしもし、マノジュか。久しぶりー。覚えてるか?」 「覚えてない。」 がががががく然!!・・・・・・簡単に言うなぁ。



  しかし証拠写真はある。これを見せればきっとうなづくに違いない。とにかく20分程でこっちへ来られると言うので待つことにした。

 彼の長兄の奥さんがにこにこしながら、お茶を入れてくれた。壁には15人程の家族の写真が大きく引き伸ばされて掛かっている。

 それとなく、富みと繁栄を伺わせるファミリーのようだ。 

  「お待たせしました。」 マノジュが現れた。15kgは太ったに違いない。すっかり、中年のオッサンだ。

 写真を見せるが、それでも記憶にないと言う。 (アホトチャウヤロカ。) 

 現在、トレッキングガイドと貿易の仕事をやっているらしく、名刺には生意気にもファックス番号まで書いてあった。

 日本へも5回行ったといいながら、タバコをふかしだした。 「マノジュ、いつから吸うようになってん?昔はあんなに真面目やったのに。」 

  「(大笑い)今、不真面目ですねぇ。おおがさん、今晩、空いてるでしょ?うちで一緒に夕飯食べましょう。」 

  「うん、ええで。実は、友達二人おるねんけど連れていってもええか?」 「大丈夫、大丈夫。」

 結局、マノジュに大型バイクでタメルのチェトラパティまで送ってもらい、一旦別れて再開することになった。



  ホテルに戻ると、フロントでトレッキング斡旋会社を紹介してもらうことができ、心配していた明日からの予定がすらすらと

 気持ちよく決まって行った。
コースはカトマンドゥからポカラまでバスで7時間走り、更に、30分程ローカルバスで入った

 ナイヤプルから歩き始めて、標高3000m近いゴレパニ峠を一週間で往復するというものである。

 ガイド1人が付き、飲食費、宿泊費、交通費、トレッキング許可書作成手数料等、締めて320ドルだ。

  但し、ビールとミネラルウォーターは自己負担ということである。


  日差しのきつくなったタメルの繁華街でわたしたち三人はビールとチベット料理で歓談した。が、どうもO君の元気がない。

 彼はできるだけ早く、インドのベナレスへ行きたいらしく、午前中はビザの申請に奔走していたが、役人から一週間かかると言われて、

 すっかり落ち込んでいるのである。ネパールに来たばっかりで、まだどこも見てもないのに、なんやらせわしない人やと思ったりもするが、

 まあそれもおもしろいかもしれない。



  昼食後、O君はイミグレーションオフィスへ行くというので、

 わたしとSさんは歩いてスワヤンブナート寺院を観光することにした。


 ストゥーパの四方に描かれた仏眼のシンボルと色とりどりのタルチョー(祈りの旗)が蒼穹に映え、

 存在感を讃えている。別名、モンキーテンプルとも言われ、絶壁のような急な階段の周辺に

 日本ザルに似たサルが自由に遊び回っている。

  「それに・・・しても、この階段、・・・きついねぇ。」と、わたしがいうと、Sさんは冷静に答えた。

  「でも、トレッキングって、こんなもんじゃないですよね。」その通りだ。正直いって

 ちょっと心配になってきた。寺の周囲は展望台になっていて、カトマンドゥの町並みが一望できる。

  太古の昔、この盆地が湖だった頃、文殊菩薩が現れて水を抜き去り、人の住める都にしたという。

 その時、一条の光りと共に最初に現れたのがこのスワヤンブナートであった。

 こんもりと盛り上がった純白のストゥーパの側壁はその国生みの顕現をシンボライズ

 しているのかもしれない。わたしたちは巡礼客に混じって写真を撮り、旅の安全を祈願した。



  午後6時、約束の時間にO君が帰ってこないので、Sさんと二人でマノジュの家に行くことにした。彼の家はスワヤンブナート寺院の

 麓の見晴らしのいい三階建ての大きな邸宅で、奥さんとまだ幼い二人の娘さんの四人で暮らしている。

 細面で知的な美しい奥さんはインドのボンベイ出身で、結婚するにあたっては両家の親族から猛反対されたそうである。

 ネパールという国は実際、インドの属国みたいなもので、たとえカーストの高い裕福なネワール族であっても、ボンベイの知的層と

 比べれば雲泥の差である。よほどの大恋愛だったのだろう。マノジュは照れ笑いをしながら、婚礼のアルバムを開いてくれた。

  「結婚式でもみんな怒ってますね。(笑)」 しかし、そうは言いながらも長女を膝に乗せて幸せそうだった。

 熱帯魚のいるゆったりした居間で、わたしたちは奥さんとマノジュが共同で腕を振るってくれたダル・バート(豆スープのカレー)や

 鶏肉のカレー煮を御馳走になり、冷たいビールも厭というほど飲ませていただいた。顔も覚えていない他国の人間になんて親切なんだろう。

  彼に限らず、この国の人々は日本人を特に歓待する。日本政府も民間も挙って、ネパールへの開発援助に積極的であることも

 大きな一因に違いないが、こうして彼らと話していると何やら近しい兄弟のような気がしてならない。

 われわれは同じルーツを共有する民族なのだろうか。すっかり、くつろいでしまった。

 みやげの一つも持って来なかった事が悔やまれるが、この次ぎに来るときには自前の菓子をたくさん提げて来ようと思う。

  カエルの鳴く暗がりの畦道を歩いていると、愛しい故郷を名残惜しんでいるような、そんな気持ちにさせられてしまった。

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