大阪府豊中市
南桜塚1-4-2
06-6852-4041

 
きねやはんのまるごとアート vol.3より
 
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 95年9月13日 旅館のおばちゃんにキーを返すと、「明日、また戻ってくるか。」と聞かれたので、「うーん、わからんわ」と答えると、寂しそう

な目をした。帰ってくると言っておけばよかったかな。一流ホテルでは味わえないチェックアウトであることは確かだ。

 

 朝からあいにくの雨模様となったが、地下鉄の駅は歩いて一分、なんと便利だ。構内は節電政策のため少し暗いが、清潔で静かだ。さてと、

進行方向はどっちだ。目の前に新聞を広げている兄ちゃんに、いきなり日本語で尋ねた。

 「メンニョンドンはどっちですか。」 「・・・メンニョンドン?・・・アア、ミョンニュンドン」 「そう、それ」 兄ちゃんは力強く進行方向を指さした。

そして、おもむろに口を開いた。「アノ、ニッポンチン、ノ、カタデスカ?」 「はい、そうです。」と答えると、彼は急に表情を和らげて、畏敬の

眼差しを向けた。「私、今、大学で、ニッポンコ、ベンキョウシテイマス。」 おお、そうかそうかと、こっちもちょっと興奮してきた。同じ電車に

乗りながら、たった数分の間ではあるが、わたしたちはいろいろと語り合うことができた。彼は三ヶ月後に日本を旅行する計画を立てていると

いうので、わたしは「訪ねてください。」と名刺を渡した。別れてからも彼はホームに立ち止まったまま、何度も頭を下げ、手を振った。

とても清純な学生さんだった。]世代の範疇には属さない若者もいるのだ。

 高速バスを乗り継ぎ、一時間程でキョンジュに到着、市バスに乗り換えて、目的の仏国寺を目指した。雨にもかかわらず、その間の延々と

続く桜並木はとても快適で、春の満開時を頭の中で描いてみるのもまた楽しい。歴史の都キョンジュは日本でいえば、飛鳥や太宰府といった

ところで、いたるところに古墳が散在している。。 

 ようやく仏国寺前に着き、閑散としたあたりをキョロキョロしていると、一人のおばちゃんがフード付ヤッケに肩をすくめながら、わたしを呼ぶ。

言葉はわからないが、食堂の客引きであることはしぐさでわかった。丁度昼時だし、素直におばちゃんについて行くことにした。この辺りの

土産物屋、食堂、旅館は、まるで竜宮城のように古式ゆかしい伝統美で統一され、散歩するだけで十分楽しめる。その一画の韓式レストラン

でおばちゃんお勧めの焼肉定食、プルコギを賞味することになった。それは想像していたより、ずっと豪華な料理だった。メインは銀鍋に牛肉や

野菜、糸コンニャク、ネギ、玉葱、茸などをピリ辛く炊き込んだすき焼きで、それにゼンマイとモヤシと菜っ葉を油で炒めたナムル、干しぶどう

のような珍味の甘納豆、胡瓜や大根の唐辛子漬け、ちくわと唐辛子の炒めもの、大根の酢の物スープにご飯と盛りだくさんだ。

これが定食というのか、もったいないがわたしの腹は半分ではちきれそうになり降参した。食事を終え、支払いを済ませようとする頃、タイミング

を合わせたように隣の土産物屋のおばちゃんがやって来て、わたしに完璧な日本語で話しかけて来た。自分の店でコーヒーでも飲んで行けと

いう。買い物をさせようという魂胆かもしれないが、腹の中で「絶対、買わんゾ」と誓って、おばちゃんに付き合うことにした。

 その店は高級そうな青磁の壷やアメジストの装身具、数珠などが体裁よく陳列してあり、興味を引いたが、わたしはわざと関心のない振りを

した。「アムウェイのコーヒーだからおいしいですよ。」 おばちゃんのコーヒーを入れる上品でゆとりのある動作から、わたしには商売気を剥き

出さないだろうとみた。

  「わたしは十二歳まで兵庫県の丹波にいたのよ。」 「へえ、それで日本語上手なんですね。」 「あなた、ご両親ご健在?」

意味ありげな問いに、わたしはハイと答えたが、優に還暦を越えていそうな彼女には同じ質問をする気にはなれなかった。その先に戦前戦後

の暗い話が待っていそうだったからである。わたしはおばちゃんがコーヒーに添えて出してくれた栗の実を取って、「この栗大きいね。丹波栗

みたいや。」と話を逸らした。しばらくして電話が鳴った。長電話になりそうなので、わたしは「ありがとう」と頭を下げて店を出た。

 十分ほど森林浴を楽しみながら歩くと、ゴルフ場を備えたリゾートホテルであるコーロンホテルに着いた。飛び込みであっさりチェックインして、

7階の見晴らしのいい部屋をあてがわれた。幾重にも重なる山々の懐に、さっきバスを乗り換えたキョンジュの中心街が角砂糖をこぼしたように

小さく広がっている。わたしは満足し、荷物を置き、傘とスケッチブックを携えて、仏国寺を目指した。

 呑含山の斜面に聳えるその寺は西暦五百二十八年、新羅が仏教を準国教としてからすぐに建立された。千五百九十二年、壬辰の倭乱で

焼かれるまでは現在の十倍のスケールであったという。ここでも日本が暴れまくったのだ。大雄殿の上がり口に着くと、老女が二人、寺守りを

していた。記帳簿に住所氏名を書くと、三年間祈祷をしてくれるというので、10000ウォン払って家族の名を連ねた。三年間というのがおもしろ

い。どういうふうに拝むのか見せてほしいものだ。ここのおばあちゃんも日本語がペラペラで、なかに入ってもいいかと聞くと、「お寺は自由だ

よ。」と返ってきた。一人か、と聞くので、そうだ、と答えると、「寂しくないかい。」と尋ねた。わたしは韓国に来て、もう三度もこの質問をされた。

 かつてインドを半年旅した時は一度もされなかった質問なので、国民性の違いがよく現れているように感じる。実際のところ、わたしは旅をして

いても家にいて仕事をしていても気分的にはまったく変わらない。どこで誰と楽しい対話をしていても心の底ではいつも孤独と向き合っている。

基本的に人間というものは自分が孤独であるということから逃れようと絶えず刺激を求めたり、なにかに属そうとする。しかし、いくら逃れようとし

ても結局また孤独に戻らなければならない。お釈迦さんが説いたように人は生まれる時に孤独、老いる時に孤独、病む時に孤独、そして死ぬ時

に孤独であることをよく知らなければならない。しかし、孤独から逃れようとせず、本当に心の底から孤独を受け入れた時、初めて人は救われる

のである。インド人はこのことをよく知っている。だから「寂しくないか」といった質問をしない。

 わたしはおばあちゃんらの他には誰もいないがらんとしたお堂の真ん中に腰を下し、蓮華座を組んだ。そして、ゆっくりと深呼吸をし、菩薩や

十大弟子を脇に従えた金色の釈迦牟尼仏を拝して、静かに瞼を閉じた。救いはまさに仏との一体化にのみ果たされると信じて止まない。


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